←前のページへ 次のページへ→
〜 東急玉川線(玉電)について 〜

建築学科3年 5220番 春名 秀一郎

1. 玉電の歴史

 東急玉川線(通称玉電)は昭和44年まで存在した渋谷線〜二子玉川園駅間を結ぶ軌道線である。玉川砂利電気鉄道が明治40年に開業した路線が始まりとなっている。多摩川の川砂利を都心に輸送する目的で開通した本路線はジャリ電とも呼ばれていた。砂利輸送のみならず旅客輸送においても一般と沿線にかつてから多く存在した軍関係諸施設により順調な利益を生んだ。
 開業当初は軌間1067mmであったが、東京市電との砂利輸送の直通化のために大正9年に軌間1372mmで運行を開始した。大正11年天現寺線開通、大正13年砧線開通、大正14年下高井戸線(現東急世田谷線)開通、昭和2年中目黒線,溝ノ口線開通と路線を拡大していった。
 しかし、昭和11年に東京横浜電鉄に吸収合併され、川砂利の採取規制と相まって砂利輸送が廃止されて旅客輸送が中心になった。昭和13年には天現寺線、中目黒線の経営を東京市に委託(昭和23年に譲渡)、昭和18年に溝ノ口線を大井町線に変更、と合併による路線縮小を受け、玉川線、下高井戸線、砧線の3路線で廃止されるまで運行された。
 昭和30年代後半になるとモータリゼーションの影響で道路混雑がより発生し玉電の運行が難しくなったが、オリンピックのための道路拡張によって難を逃れ運行を続けていた。しかし、国道246号線に首都高速3号渋谷線と地下鉄新玉川線の建設が決定したため、昭和44年に玉川線、砧線を廃止し下高井戸線を世田谷線に改称し現在に至っている。


2. 玉電の車輌

 玉電廃止時に在籍した車輌は、デハ30形、デハ40形、デハ60形、デハ70形、デハ80形、デハ200形、デハ150形があった。それ以前には木造車であるデハ1形、デハ20形等があったが昭和20年代に箱根登山鉄道にデハ20形25号〜27号の3両を譲渡、その他は鋼体化しデハ80形88号〜108号となり形式消滅した。玉電廃止後に東急世田谷線にデハ70形、デハ80形、デハ150形が引き継がれ、平成13年まで使用され続けた。現存している車輌は、デハ200形204号が電車とバスの博物館に、と元デハ80形104号(2代目87号)江ノ島電鉄600形601号が宮の坂駅に保存されている。




写真1 デハ200形204号


3. 玉電の現在

 玉電が走っていた国道246号線には首都高3号線が建設され、当時の面影はほとんど残っていない。しかしながら、玉電の連絡口であった渋谷駅の玉川改札はまだその名称を使用し、玉電廃止後に運行されているバスの停留所名には玉電の電停の名称が多く使用されており、玉電の名残は現在にもあることがわかる。
 砧線は専用軌道(二子玉川園-中耕地-吉沢間)を道路に転用しており、246号線から吉沢橋まで一直線に伸びて吉沢橋交差点で砧本村方面へ大きくカーブしていた軌道の跡がそのまま残っている。また、中耕地駅跡には石碑が建てられ電車のレリーフがある等玉電の面影が多く残っている。
 下高井戸線は、東急世田谷線となって玉電の唯一の現役路線となっている。全線が専用軌道となっている、一定の需要がある等から存続した世田谷線は玉電の雰囲気を最も残しており、今でも玉電と呼んでいる人もいるらしい。環状7号線を通る若林踏切が辛うじて路面電車の面影を残している。現在は東急300系(デハ300形)のみが使用されているが、第1編成は玉電塗装(デハ200形)となっている。




写真2 砧線跡地歩行者自転車道




写真3 中耕地駅跡




写真4 デハ300形301F(三軒茶屋駅にて)


4. 最後に」

  玉電が廃止になって約半世紀になる中、国道246号線のような全く新しい景色に生まれ変わった場所、砧線跡のような当時の面影が残りながら景色が少し変わった場所、世田谷線のような当時とほとんど同じ景色の場所を見つけることが出来た。また、玉川改札やバスの停留所のように景色が変わっても名称が残り続けているものもある。これらのような多様な形で残っているのは、玉電が沿線の人々にとって大きな存在だったからだと感じた。


参考文献
  1. 東急電鉄:電車とバスの博物館 玉電デハ200形の展示物
  2. 林 順信 編著 「玉電が走った街 今昔」 JTBキャンブックス
− 37 −

←前のページへ ↑このページのトップへ↑ 次のページへ→